The traveller in Dreams

うたいびとのささやき

繋ぐ

tanakaです。


なぜ、親父のことを思い出しているかわからないが、
ガンになってからも、
必死に、強くたくましく生きる。
その姿を見せてくれた。


転勤してアパートを借りるのが面倒で
実家に戻った。
ちょうど親父も5月に定年を迎える前に
家に戻った。


四月の初めに祖母の葬儀があり、
その時、初めてガンであることを知ったが、
次の職場を見つけていて、ただただすごい、そう思った。


3年くらい通院しながら働いていて、
抗がん剤治療を続けていた。

入院するときの書類があって
(保証人みたいなものに)自分はサインをした。迷うこともない。

ガンでも10000人に2人くらいのガンで東京の病院に足を運んだ。
親父はガンの治療のためになることは積極的だった。


造血幹細胞移植の提案を受けたときは
「普通50歳くらいまでの治療だって」と

資料をみさせてもらったが、
無菌室にしばらく入らないといけない、ここのリスク。
そして、副作用、体力的なことを考慮にいれて。
反対した。


通勤で使っていた車の異音を聞いて
もう(この車)ダメだなと。
お世話になっている修理屋さんに連絡して
パンフレットをもらってきた。
「新しく買うぞ!」って、もうゾーンに入っていた。

(いままで世話になった分やいろいろなことを考えて)
親父が買うなら、自分が買う。修理屋さんに要望をだした。

納車して、間もなく、親父の足が急に悪くなったので。
福祉車両にしとけばよかったと、そう思った。


梅雨明けに、また入院をした。

母親と妹は、今のままでも躊躇していたが
自分は迷うこともなく3台あるエアコンを買い替えた。
電圧が200ボルトだったため14畳用より上しかなく。
店員さんに「業務用ですか」と聞かれるくらい
普通じゃない買い物だったようだ。


親父が戻ってきたとき、エアコンを買い替えたことを伝えた。
「ん、おまえ」「あぁ、200Vのやつだよ」


髪の毛もなくなり、頬もこけ、ふくらはぎもやせ細り。
それでも、何度も入退院を繰り返し
とにかく必死に生きてきた。


地元で、もう、治療しようとなったときでも
「眠くなって動けないから」と
医療用麻薬はできるだけ使わないようにしていた。
動けなくなってきているのを嘆いていた。


特別棟に入院が決まって荷物を運んだが
(あぁ、もう会えなくなる。)
帰り際、思わず手を掴んだ。
触られるのがいやで、怒った。

すぐに明るい調子に戻り、
「じゃぁーねー」と

自分が聞いた最期の言葉だった。

 

 

「おまえ、(大学)受かっているぞ」
と電話があったときは凄く驚いた。
自分は通知がくるのを待っていたのに
なんで、大学に行っているのさ。


引っ越す先々でも親父は必ずきて、
生活に困らないよう、いろいろしてくれた。

もちろん、バンドで新天地に行ったときも。


仕事のストレスからか、家族にあたることも多かったが、
資格を取り続けるために勉強をとにかくしていた。
努力家だった。

 

 

散歩のルートを変えたので、ちょっと寄り道をする。
(綺麗に整えられた石が多いな、神殿にあるような石が)
墓前で手を合わせる。

この場所はおのおのの家族の祈りの場所でもあるから、
自分はお墓に対してマイナスのイメージがない。
天と交信するアンテナみたいな場所だと。

 

親父に言われていた。
「仕事はしがみついてでもやれ、
振り落とされないようにしろ」と


(ごめんね、おやじ、無理だった。)


この部屋は親父の部屋だった。
自分がいた部屋は西日が入らなかった。
それもあり、移動してきた。


ようやく、早起きしてカーテンが開けられるようになった。
数か月前まではそれすらできなかったのだから。

朝の空気を感じ。パソコンで文字を起こし、
(ドラムが叩けない分)ギター弾いて、コード譜作って。


順調に回復しているよ。親父。
これからも家族を見守ってください。